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- 喉の薬が効きすぎるせいか、寝過ごして梅田まで行ってしまった。
- 大学でしたいことの半分ぐらいしかできなかった。でも、その分、家の中ではできなかった議論などができたので、まぁヨシとするか。仕事の遅れは何とかして取り戻さないとな。あぁもう六月だ。
- 私の学生が、私の言葉で傷ついているという噂を聞いた。うーん、そうでっか。私の方にも非があるが、学術的討論の基本原理を伝えるのを忘れていたかも。すなわち、学術的討論は荷重フリーなのだ。ここで荷重とは、情緒的な評価だと思っていて欲しい。
- ある人Aがある意見aを述べたとする。私がaを否定したとしても、それは私がAさんのことを嫌いであることを何ら意味しない。逆もまた真で、Aさんのことが好きでも、それが言説aに対する肯定を意味しない。論理の筋道と、感情とは全く無関係にすべきなのだ。先生は確か、日本人はそれをイコールにしたがる、といっていた気がする。すなわち、aを否定することがAさんを否定することに繋がる、と解釈する人が多い。
- これだと教員は学生を評価できないのである。レポートが間違っていましたよ、ということがすなわち、私はあなたのことが嫌いだよ、になるはずないのだ。っていうか、なったら怒るのは学生の方である。だから、私がレポートにどのような評価をつけようと、人間的な評価とは全く関係ないので、凹む必要はないのです。
- ただ、私の方にも非があるのは認めざるを得まい。学生の何人かに、「これは駄文」と書いた。よくない日本語だったからだ。ただ、「駄文」という言葉のパンチ力はあまりにも大きかったようである。意味だけを考えれば、よくない文章というぐらいのことなのだが、感覚的には「お前バカ」といわれたように感じたのかもしれない。これは私が言葉の強さを見誤っていたことによるもので、全く持って私の過失。もうちょっといい表現を考えるべきだった。ちなみに、私は後輩Oの書いたものに「まれに見る駄文」とコメントしたことで、未だに恨まれている。
- ちなみに、学術的討論にかかわらず、普段の生活でも、結構荷重フリーにしている私。ある人の意見や行為に対する評価と、その人そのものに対する好意は別なのです。だからたまに、普通にメールのやりとりをしているときに、「怒ってらっしゃいます?」と聞かれる。いやいや、全然怒ってません。ただ、その日本語(あるいは命題)は間違いだと言ってるだけです(笑)