「おたくの精神史 一九八〇年代論」講談社現代新書 を読んだ。
この作者、日本語がへたくそである。読んでいて何度も癪に障る表現が出てくる。
しかし、内容はなかなか面白いものであった。
私は社会学者ではないが、こういう「現代社会の読み解き」方をするのは嫌いではない。
彼曰く、八〇年代は「自意識を消滅させた」時代だだそうである。なかなか興味深い切り口ですな。その行き着く先が、透明なナショナリズムであり、エヴァンゲリオンによる「主体性の拒否」という終焉であるという。特に、エヴァが終わった後で、監督の庵野が『「お前たちが欲しいものって結局、こういうものなんだろう」という問いかけに対し、おたく(と呼ばれる人種)が「そうです」と答えてしまうディスコミュニケーションの中に、未だエヴァが存続し続ける』という指摘や、『エヴァが終わってから「ガンダム」が返り咲いている(のは、エヴァを正視できないほど主体性から逃れている)』という指摘、あるいは
『新人類は商品を送り出す側として、おたくは消費する側として存在した』という指摘は、うまく言い当てたなぁという感じがする。
希望的観測を含めて言うならば、上記の八〇年代的感覚は九〇年代半ばまで続いたものの、ミレニアムを越えてからは「自意識=主体性を否定したままでは、結局何も進まないんじゃないの」という人間としての再生が起こっていると信じたい。その一例が、「バカボンド」に見られる肉体的感覚に根ざしたリアリティ表現(とそれを待ち望む大衆)であり、「白い巨塔」に見られる欲望の固まりとそれに伴う責任から逃れない主人公・財前五郎の登場(とそれを高視聴率で支持する大衆)ではないだろうか。
うまく言えてるとは思わないが、ともかく、現代社会は新しい息吹が芽生えていると思いたいのである。
ちなみに、個人的には今の三十代後半〜四十代の人間が、今のモラル破壊を引き起こした責任者だと思っている。当然、彼・彼女らを親に持つ子供は、可哀想なことに躾がじゅうぶんできていない。
今の学生は、実年齢から10歳引いて考えるのがいいそうだ。すると、大学三回生でちょうど10歳。ゼミに入ってくるときに小学生四年生ぐらいのしつけしかできていないことになる。やれやれ。
今日も阪急の特急車両で、二人座れる席に、体を半ば横たえながら携帯メールに興じるオッサンを見た。
二人座席を一人で座れた方が、確かに気楽ではある。「隣よろしいですか?」と言われたら、断れない現状もある。だから、なるべくそういう声をかけられないように、1.5人前分の領域を(鞄を置くなどして)確保しよう、というささやかな抵抗をする人がほとんどだ。私は恥ずかしげもなく(なんで恥ずかしがらねばならぬのか)「すんません、空けてください」といって鞄をどかせる。しかし、さすがに今日のオッサンには「ちゃんと座れ」としか言いようがないし、喧嘩しても仕方がないので黙っていたが、「この日との親は、果たして躾をしたのだろうか?」とかなり根本的なところから悩んだ。
あ、ちなみに、最近の若者を見てると「親はどうなんだろう」ってホントに考えます。多分、彼らは悪くない。親に躾が身に付いていないか、頭が悪いかのどっちかですね。
今日は大学院の卒業式。正確には、学位授与式ですな。
ということで、追い出しコンパがありました。D3、M2の連中が追い出されるわけです。社会に出るもの、進学するもの、私のようにDも出たのに宴会に参加するものなど、様々な面子で楽しみました。
途中で質問コーナーがあって、「自分が負け組だなぁと思うときはいつですか」という質問には、院生全員が言葉に詰まった。そりゃそうだ。ある意味、負け組だと自覚していないと、院生生活は送れんでしょう。
アフロヘアーにチアガールの格好をしてくれた若手(男)のおかげで、ずいぶんと盛り上がった。彼らと院生会執行部のおかげなんでしょう。私もかつては院生会執行部だったことがあるが・・・時代は流れるな、と実感して幸せになった。