「学校」に至る病,あるいは車屋のキクチのパラドクス

教職大学院は半数の大学で定員割れを起こしている,というニュースを聞いた翌日に,中教審の答申として「教員免許は二種類,基本的に大学院卒でないと正規教員になれない」という方向性にいくことが示されて,頭の中に疑問符が飛び交っている。普通に考えたら,そんなことにならないはずなんだけど?

 

この気持ち悪い考え方は,結構あちこち蔓延しているような気がする。得意なのはもちろん政治家,というか官僚の考え方で,例えば

+教職大学院は定員割れをしているので,大学院までを義務化すれば問題解決

+税収が少なくなってきているので,税率を上げれば問題解決

+放射線量の基準を守れば色々大変なので,基準を挙げれば問題解決

という実例が挙げられるわけです。もちろん,このAなのでB,という表記がオカシイという反論はあるかも。BのためにAをやってるんじゃないんだ,二つは独立なんだという反論ね。でもまあ,結果こういうロジックも成立しちゃうことが問題だということです。

 

なぜか。

ここでは,前提となるAが現状・実情に合ってないから問題を生じているわけです。これは生物界・自然界を例にすれば環境に適応的じゃない状態。この問題を解決するために,同じ方向性でより努力すれば,より延長すれば問題解決するというのはあまりにも不自然。例えば,生物が環境に適応的でなかったら子孫を残せない,死に絶えるわけです。で,残るのはその特徴をより強く反映したものであるはずがない。

そういうときは,能力をのばすときの「方向性を変える」(多様性を増す)というのが正しい戦略で,戦略Aがだめなら戦略B,C,D…と展開する必要があるのです。AをA+とかA’にしてももっと悪くなるだけ。

 

官僚が悪い,てなことを言いましたけど,企業だってだめなものはだめで,

+携帯電話が売れないので,もっと機能を足してみた

+テレビが売れないので,もっとすごいテレビにしてみた

+視聴率が下がってきているので,もっと豪華絢爛にしてみた

という問題も基本的にこれと同じことだと思うんだよな。

つまり,対処方法が前提に内包されている問題をより広げてしまう,という失敗例。

こういうの,先人たちは,何かうまいこと教訓にしてたりことわざにしたりしないだろうか。色々考えてみたんだけど,屋上屋を架す,ぐらいしか思いつかなくて,それはちょっと違うなあと思ったり。

もしいい用語がみつからなかったら,「車屋のキクチのパラドクス」と命名します(わからない人は「人志松本のすべらない話ザ・ゴールデン」を参照)。

 

 

さて,このパラドクスだけど,もとが文科省の話にあるから,あるいは自分が今国立大学の教育学部にいるからそう考えてしまうのかもしれないけど,なんだかすごく「学校」の問題のような気がするのです。

 

学校というところは,社会と違って,努力したことが評価される場所。努力したことで技術を身につけて,技術が身に付いたらそれが評価される場所。この,努力>成長>評価のラインが一本化しているのが学校という世界の特徴。

世の中全体は決してそうなっていなくて,努力しても成長しないとか,努力しても評価されないとか,成長しても評価されないということが一杯あるわけです。あるいは,努力して何とかなるというのは,元の状態に差がない前提で,金持ちも貧乏人も,思想・信条・国籍・ジェンダー,そういうものに関わらず努力>成長>評価ができる。実際の社会は見た目で9割,とか言われちゃうほど努力の関係ない世界だからね。

 

で,この学校という世界の文化では,できない子=努力しない子,ということになってしまう。個人の内的世界に帰属されるわけです。スタートラインを均質にしたからこその弊害とでも言うべきか。だから努力しろ,というのが至上命題になってしまう。その戦略そのものを変える必要があるときに,解決策として,児童生徒は「とにかくその方向で努力する」ということしか教わってこない。

 

大学教育はそうではなく,努力量よりもオリジナリティや自由な発想が必要とされる。もちろん基礎力として,抽象的志向,論理的思考,アカデミックライティングなんかは必要だけど,それ以上の話は努力だけで解決できる話ではない。

 

でも,中教審はそれを求めるのね。大学を学校にしようとしているのね。

文科省の役人さんは,おそらく努力して国家公務員になったのでしょう。だから努力以外の解決策を容認できないんじゃないか。そうなると,パラドクスがどんどん深まっていくよ。

社会全体も,学校文化をひろげはじめている。こちらは不適応になったら,会社の倒産という形でみえてくるけれども,それでいいのか。

 

もっと具体的な問題で言うと,大学院を出て努力ばっかりしてきた学校の教員がつくる「努力の殿堂」みたいな学校世界は,もっと閉塞的でもっと柔軟性がないものになるぞ。そしてそれはもっとひどい不適応を生み出し続けるのです。

 

「できなかったから,できるように頑張る」は,個人に帰属されるし,努力は美しいという公理系では反論できないテーゼ。そりゃあ合理的な方略ではあるけど,もっと他にも合理性を判断する基準があるはずだ。

 

そこのところ,ぐっと考えてほしいのです。私も考え続けます。