学生がちょうどいいタイミングで研究室をのぞいたので、コーヒーを入れていたら、ちょうどいいタイミングで仕事を依頼しているSEの方が見えたので、三人でコーヒータイム。
学生は大学に入ったときから持っているノートパソコンを買い替えようかと思っているらしい。SEの人は生粋のマカー。俺はにわかなのかなぁ、今はMBAだけだけど、マカーにかわりつつあるかもしれない人。
で、二人でMacにしないか、と勧めてみたりして。
Macのどこがいいんですか、という質問は、マカーに課せられた業みたいなもんだね。でも、究極の答え「だってかわいいじゃない」にはまることなく、機能的な面から説明したかった。
結論から言ったら,それは無理だったんだけど。
だって、利便性や社会的な優位性は圧倒的にWindowsで、少数派としての連帯感を強めるために信仰心を持ち出すしかないわけです。
信仰心といったら異常に思われるかもしれないけど、例えば家具を買うときにデザインで選んで何が悪い,と思うんだよなぁ。
ともかく、そんなこんなで、MacとTeXでもういいじゃない,という話をしたりしてました。
その流れで思いついたんだけど、最近の子はWindowsを選択したのかな?とふと疑問におもった。
パソコンと言えばWindowsしかない、といわれて、それがスタンダードだからといわれて適応を求められる。それって全然自由じゃない。
自由じゃない理由は、端的に無知なだけで、実は誰も制限している訳じゃないんだよね。「現実的に」制限しているけど、「現実的に」という言葉はいつも「理想的に」という言葉を包含しているし、そのことを忘れてはいけない。
自由な世界を知らないと、不自由なままであることに気づきもしないで1.したり顔で適応した振りをするか、2.だってこんな世の中だからと不満を言うか、3.何も考えてないので何も言えないかでしかない。楽しそうに思えないのだ。
もっと自由で,もっと楽しむために、知識は必要だし、もちろん努力だって必要。
だけど、自主的に選択して,そのとき初めて責任を負えるじゃないか。
だから僕は学生のいやがることをすすんでするのです。
統計もおんなじです。
やらないといけないことがたくさんあるのは、それを全部捨てて自由になるため。
やる前に嫌だといって捨てるのは、選択もしなければ責任も負わず、誰かのせいにする論文を書くだけになるのさ。
我々は,他人を傷つけてでも、どこかでわがままにならなければならない。