「フリーソフトウェアと自由な社会 ―Richard M. Stallmanエッセイ集」を読んでいるところ。全部読む気力が失せてきたので、もう先に案内を書いてしまいます。
ある人にずいぶん前に推薦されたのだが、最近やっと手に取ってみたのだ。
ここでいうフリーソフトというのは、「無料の」というより「自由な」という意味で使う。
改めて指摘されないと気づかないことだが、PC上のソフトウェアは著作権の問題がある、等と言われて非常に不自由なものになっている。M$の言うことを聞かなければ、PCが使えないというのが現状だ。
自由なソフトウェアは、オープンソース(プログラムコードを見ることができる)で、しかもそれを加工し再頒布することができるソフトウェアだ。そのときの条件は、自由なソフトウェアをもとに作った物は、自由なソフトウェアであること。つまりちょっと手を加えただけでソースを隠しちゃだめですよ、ということである。
フリーソフトウェアは、一般に無料で手に入る。が、コレは別に課金することを禁じているのではない。パッケージをまとめて販売したければしてもよいのだ。ただ、自由であろうよということである。
思想は確かに素晴らしいし、賛同する。しかし、現状ではフリーでないソフトに縛られている方が便利であることも事実だ。
面白いのは、この本の著者は、昔プリンタドライバをくれよ、と友だちに言って、「違法コピーは駄目なんだってよ」と断られたことにブチギレし、そもそもソフトウェアやソースコードを隠そうとする心根が間違ってるんじゃぁあ!と言ってるところ。最初の怒りもここまで大きく、正当な意見になれば立派な物だ(笑)
ともかく、「フリーでも困ることなんか何もないじゃないか、逆ならあるのに!」ということを多角的に(言い換えればダラダラと)議論している本です。
ところで、このフリーソフトウェアの問題は、科学の方法論とも同じ問題を持っている。
社会科学は統計パッケージをよく使うが、それらのほとんどは不自由なソフトウェアだ。
あるいは、尺度を使うことにしても、著作権がある云々と言われて、ある学会などは「尺度の開発元の人間から一筆とっておくこと」が論文掲載の条件になっていたりする。
しかし、科学は客観性を保持しなければならないという原則があるため、この不自由さ=非公開のやりかたは原理的に間違えている。科学者は基本的に、科学という理想郷(あるいは理想的なゲーム)にあこがれているようなので、科学じゃない一般の業界に比べて理想的で紳士的な世界になっているとは思うけれども、一方で特殊な技術を簡単に使えるようにしてくれる努力に対価が支払われるのは、資本主義経済の原理に何ら反していない、といわれたらそうなのかもしれぬ。
ではあるが、やはり問題もある。一つは価格がべらぼうに高いことであり、また一つは、どういう計算が成されているのかを明らかにしてくれないとやっぱり困る、ということなのだ。
前者は、例えばSPSSだと基本パッケージだけで15万円ぐらいする。SASはその何倍だろうか?市場の原理に沿うとその価格になるんだろうけど、やはり初学者や、大きな組織に所属していない者にとっては困るのだ。貧乏人は研究するなってか。
後者は、分析の結果=科学の知見を一私企業に任せていてよいのか、ということである。こういう結果が得られた!と声高らかに宣言した後で、「あの計算にはバグがありましてん」と言われたら目も当てられない。やはり複数の目でチェックする必要があるだろう。そして、そういう科学の一翼を担っている企業は、せめてそのアルゴリズムを明らかにして欲しいのだ。
オープン・ソースとは言わない、オープン・アルゴリズムである。
こういう反復計算をして、この数字が出ていますよという説明があれば、追試できるだろう。
しかし現代のコンピュータ・ユーザーにとって、もはやソースコードをいちから書くのは負担以外のなにものでもない。だからこそ、アルゴリズムを明らかにすべきじゃないだろうか。それによって、同じ計算結果が得られるすべが確保されたとしても、誰もいちいちソースを書いたりしないと思うのだ。そしてよいソースを書き、よいIFをつくることには、対価が支払われるべきなのである。
ちなみに、私のサイトではこのオープンアルゴリズム思想でやってます。ソースは恥ずかしくてお見せできるものではない、というのが本音だけど、逆に言うとエンドユーザーにとってソースを明かされるよりも、アルゴリズムを教えてもらえた方がよっぽど楽で便利だと思う。ソースはそれを書くのがうまい人が書き直して下さい。
統計学について、最近思うことをついでに書いておくと、かの学問は理論の進歩とユーザーの理解、内容の複雑さと実行の容易さ、という二つのギャップを抱えている。
統計学的な思想というのは、それこそパラダイムシフトとか、コペルニクス的回転といってもいいほど、常識的・日常的発想から解離している。それにたいし、コンピュータの進歩による分析の容易さは目を見張るばかりだ。授業を何コマもつかって教わったことが、ものの数秒で計算できてしまうとなると、学習者の感覚がおかしくなってしまう。難しいことが簡単にできる、というのは本来よいことなのだけど、簡単にできるから簡単なことだと思ったり、難しい原理があるから難しいことだと思ってしまったりする。これは自分の中でも解決できていない問題で、「神懸かり的なことをしている!」とあがめられても困るし、「そんなの簡単でしょ」といわれても困る。もちろん、その困難度をしっかり理解し、かつ私の能力を知った上で依頼してくる分には問題ないのだが。
今後、統計学は(デザイナー業界のように)「統計ディレクター」と「統計モデラー」に分離するだろう。ソフトの使い方に熟練した人が、ディレクターの分析イメージに沿ってモデリングする、という分業体制になって欲しい。いや、なるはずだ。社会調査士という資格が、ディレクターのためのものかモデラーのためのものかはわからないけど、そのどちらかになるはず。今は時代の過渡期だから、二つの仕事のどちらも一人の人間にかかってきてるけど、そのうちディレクターは方向性を示すだけ、モデラーは結果を出すだけ、ってなって欲しいなぁ。
・・・あれ、書評じゃなかったっけ?コレ。まぁいいや。