(承前)
続けてドゥルーズは言う。「科学の掲げる理想を追求する態度とは、人間をその本来の姿に気づかせないための、社会が仕掛けた“罠”にほかならない」。言いがかりもここまで来ればたいしたものだ。嘘も百回唱えれば真実になると言うものさ。確かに本来個人というものは自由に流れる欲望だ。個人は社会の公理系(規則)に服従させられる。公理系に従うならば、社会の一員として認めてやると言うわけだ。社会の成員となるためには、人は(本来の意味での)個人であることを止めなければならない。社会の公理系通りに欲望を流さなければならない。社会の規則通りに生きると言う欲望が、他者に認められうる人に許された唯一の欲望なのだ。こうして人には本来と全く違った形の個人、「社会的な個人」というものが、本来の自分だと言い聞かされるのだ。そして、この社会的な個人が世界を統一したものに見ようと「社会」に欲望させられるのだ。つまり「世界の全体を知り尽くそう」という真実を求める態度は、本来の人間にある唯一の態度ではなく、人の敗北者としての弱さから生み出されたものであり、それゆえ道義的な起源をもっているのである。道徳とは、ある社会の公理系が、それに反して流れ出ようとする欲望によって変えられることがないように(社会の成員が)相互に監視し合う心の働きである。近代的な意味での個人とは、本来の個人(欲望)を抑圧され、代わりに社会的にコード化(規則化)された、個人のことである。すなわち、個人とは全く自由なのであるが、決して文字通りにその自由を行使してはならないといった、二重拘束に陥った経験のことである。全くこの通りだ。人の欲望が悪であるというイメージを植え付けたのは社会であって、絶対的なものではない。社会がそれを否定するのは、人が本来の自分を自由に生きることにより、社会の公理系が崩壊するのを防ぐためであるし、そのために人に道徳を欲望するように仕向けたのだ。だが、このことを非難される筋合いはない。人は既に社会との戦いに負けたのであるし、そのことで社会のために生きることを欲望するようになっているからだ。また、人は確かに社会化された個人と本来の自分との間に不調和が生じれば、本来の自分を探そうと悩んだりするようになったり、それがひどくなればノイローゼ(神経症)になったりするが、そんな本来の自分を探そうなんてせずに、「社会化した個人」を生きれば何ら問題はない。それよりも社会の公理系をまもるほうが重要であろう。社会の公理系からはみ出そうとする個人が、「科学的でない」、「理性的でない」、「普通はそんなことを考えない」、「あいつは変わっている」と抑圧を受けるのは彼が間違っているのではなく、安定を求める社会がそれを脅かそうとしている者に対する防衛反応の結果なのである。そう、科学は個人が「真の自分」に気付かないように巧妙に監視する役目を担っているのだ。
(続く)