わかるとはどういうことか
「わかる」とはどういうことか,という問いに真正面から答えるのは難しい。しかし,「わかったかどうか」を検証する方法からみると,ヒントが見えてくる。
「わかったかどうか」を検証する一番よく知られた方法がテストである。テスト理論の基本は,$X_i = t_i + e_i$,すなわちテストの点数,正答誤答,パフォーマンスを表す$X_i$には,真値$t_i$と誤差$e_i$が含まれているというものである。一回のテストで100点とったから,その人の才能が100なのではなくて,本当は90とか120だったかもしれないけど,テストでは測りきれない要素が加味されて100になっている,と考える。
テストで全て測れるものではないし,回答者の調子とか,テスト環境など状況要因もあるだろうから,その分を考慮しましょうということを考えると,このモデルは妥当なものだろう。
しかし,テストでは全てわからない,で終わってしまうのではない。テストを繰り返すことによって,誤差の部分が相殺されて新値に近づくことができる。誤差はプラスだったりマイナスだったりするが,平均は0だと考えられるからだ。だからテストは繰り返されるし,1問,1項目だけで構成されるようなテストはないのである。
つまり,その人の中に本当の知識,能力,理解が存在するのであれば,いくつもの質問や問題に正答したり,解決したりすることができるはずである。さらに切り口を変えていうと,国語であれ数学であれ,あるいは社会問題であれ抽象的な数学概念であれ,ともかくあることを理解している,知識があるということは,それについて様々なアウトプットをすることができる,ということだろう。
私も教壇に立つものとして,何かを教えようとするときは,色々な表現をする。色々な切り口で語ろうとしている。これができるのは,「より深い理解」ができているもの(得意分野,専門分野)があるからであって,それ以外のよく理解できていないものを語ろうとすると,一通りの切り口でしか表現できなかったりする。そしてそれは得てして,初めてその概念を教えてもらった時の,教えてもらい方と同じことをできるだけコピーしたもの,にしかならない。
自分の言葉で表現する,というのは,自分の中に理解したものがありますよ,ということの表明であり,通り一遍の回答しかできないのは「わかっていない」のである。
いつだったか,ネットで見たブログの記事で,成績が上がる勉強法について書いてあるのを見かけた。方法は簡単で,その日学校で教わったことを,自分で再生するのだそうだ。再認ではなく再生。自分の中から,教わったものがもう一度出てこなかったら,そこが理解できていないということ。塾なんかに通わなくても,これだけで東大に合格した,とかいう話だった。そうだろうな,と思う。
自分がわかっているかどうか,を測るためには,色々な言葉で表現しなければならない。できるだけ自分の理解に近い内容を,語弊なく,複数のメタファーや単語で表現できれば,周りからは理解していると評価されるだろう。
再認するだけでは,自分がわかっていることを納得しただけで終わっている。ああこの問題,この式,この言葉,見たことがあるよ聞いたことがあるよ。これでわかっている,と思っているとダメなのである。人に聞かれて(テストされて),答えられなくなる。「そんなことない,本当にわかっている!」と言ったところで,それを確認する方法がないのだから,客観的にはわかってないことと同義なのだ。
そろそろ前期が終わる。試験問題を作っている。できるだけ多くの問題を出してやろうと思う,これは嫌がらせではなくて,チャンスを増やしたほうがいいと思うからだ。色々出題しているけれど,適切な難度の出題は本当に難しいと思うし,切り口を変えて表現するたびに,自分の理解も深まるようだ。
受講生諸君,そんなに心配することはない。わからないことがあるのかどうか,自分の中から表現して見て確認し,わからないなら何がわかっていないのか,を確認すれば良い。自分の説明が詰まるところ,他人にうまく伝えられないところが,わかっていないところなのだ。ただただ「わからなーい,むずかしーい」とのたうち回っている時間は無駄ですよ。究極的には,わからないのは,わかろうとしないから,とも言える。
研究者は執筆業だ。今もいろいろ文章を書いているけれども,なるべく多くの言葉で表現したいとおもう。もちろん本などは筋道があるから,無駄に説明が「とっちらかってしまう」のは避けなければならないけれど,読者にとて理解の道が一本ではないと思うし,それが私の理解して来た道と同じであるとは限らないからだ。これがなかなか難しい。もう一度言うが,研究者は執筆業,作家なのである。
わかる,がどういうことかはわかないかもしれないが,わかった人の振る舞いをみると,わかるとはどういうことかがわかるのではないだろうか。