無題(4/5)

コロナ禍のせいでこれほど新学期感のない4月は初めてだ。徒然なるままに、最近のことを書き連ねてみる。

昨日、東京での新しい感染者数が百人を超えた。そろそろロックダウンくるのか?にしても、今日買い物に出たら町田のホームセンターは人いっぱいだったぞ。どないや。

このところ在宅ワークが多い。ゼミは主にビデオ会議だ。AirPodsと Mac miniでやってると音声が途切れがちになる不具合が目立ったが、MacBookでやると画像も音声も安定するらしい。モバイル端末としての完成度の高さ、バランスの良さがあるのだろう。今後はこれでいこうと思う。ちなみにこれに気づいたのは、オンライン飲み会をやった時。デスクではTwitterをしながらだったから。

授業のやり方も考えないといけない。基本オンラインになるらしいから。幸い新年度に向けてコマシラバスを準備してたから、細かい進め方や課題は準備できている。しかし、読むことを指示しても画面の向こうでどれほどの人がちゃんとやるのか。資料も散らかっていて、それは話すことと引用文献リストでカバーしようと思ってたけど、受講生がみんな読むとは限らない。それでいて課題のレベルが同じなら、取りこぼす人がたくさん出るのでは。きめ細やかなサポートをする方法を考えねばならぬ。いいように言うなら、学生が「教わる」から「学ぶ」主題に統一されるわけで、本来の大学の姿になるのだが。

これを機に職場のメンバーにTeamsが浸透したり、RStudioServerの準備などが進んだりしたのは、怪我の功名。コロナ騒動の後も、良いところは残り、悪いところは戻す、その塩梅をうまくやらねばならぬ。

在宅ワークが多いと、オンとオフが切り分けにくい。子供たちもずっと在宅だし。通勤時間がなくなって、家事をやる時間が増えたので、トータルで仕事時間は減ったか。でもまぁ、家族の心理的ケアというか、こういう時だからこそ家族との時間を大切にできる、これも怪我の功名と思うか。最近は夕食後に毎晩麻雀をしている。末っ子があぶれて、隣の部屋でずっとYouTubeを見ているのは、可哀想なような、家族システムの安定の形のような。

この形がいつまで続くのやら。解決の糸口がなく、悪くなる方向しか予想できない。子供が時折、不安がる。たまに職場に出る時も「やめときなよ」と怖がられたり。どれほど怖いのか、「本当の瞬間」がいつなのか、正常性バイアスを突破して自覚するのは難しい。ところで、思えば二十代で阪神淡路大震災、三十代で東日本大震災があった。四十代でコロナだ。10年おきに、何かしら万単位の人が死ぬ出来事が起きている。幸い家族の範囲に影響はないが、それでも数ステップで行き当たるわけで。当たり前だが、社会と歴史と人生はつながってて、交わってる。この感覚は大事にしたい。