仕事上の都合もあって、学力低下は錯覚であるを読んだ。
データに基づいた議論をしていて、しかもわかりやすい解説。データに基づくってつくづく大切だな、と。もちろん、ちゃんとしたデータに、ね。
本書の目玉ではないのだろうが、最期の方に、教育システムに対する提言があって、個人的にはそこが一番印象的だった。
文中で数学者の小平邦彦氏の意見を参照し、
物事には次の三種ある。
- 子どもの時に習得しておかなければ大人になってからではどうしても覚えられないこと。例えば読み書き。
- 大人になってからでも簡単に覚えられること、あるいは大人になってからの方が子どもの時よりも早く覚えられること。例えば目玉焼きの焼き方。
- わざわざ学校で教えなくても自然に覚えること。例えば楽しく食事をすること。
このように分類してみれば、小学校の教育においてその内容が1.に属する教科に重点を置くべきは明らかだろう。
という。著者の神永正博氏は「国語・算数・理科・社会」はこの順番で重要なんだ、とも。まさにその通りだ、と思います。
読んでいて、子どもの頃社会科の意味がよくわからなくて困ったことを思い出した。
「町には魚屋さんがあります。魚屋さんでは魚を売っています。では野菜は?八百屋さんですね。地図を書いてみましょう」
といわれても、ハァ?としか思わず、ずっと何を習っているのかわからなかった。三年生ぐらいで地理を習ったが、そのときは社会科=イミフというイメージがあったので、ただただ地域と名産品を覚えるだけで辛かった。六年生ぐらいになって歴史を学び、人間ドラマとして考えるとちょっと興味がわいたけど、という記憶がある*1。
ところが結局、大人になってみると政治経済は面白いし、歴史は知っておきたいし、旅行に行くと地理のことも考えるわけです。人文地理学なんか、今になって興味がわいてきてるわけで*2。
子どもに社会科は早いよなー。生活科とか総合的な学習は、もっと先でいい、という著者の主張には納得いきます。
さて、本書の内容は、大学に於ける学力低下がメインで、タイトルにもあるように日本人がバカになっているわけではない、という話。ミソはどこにあるかというと、大学の構造的問題。
翻って、いつも思うことだけど、日本の教育のあり方は変えていかないとなぁ。韓国やフィンランドとの比較が本文中にあったけど、日本でも国家がもう少し主体的に保証すべきだろう。
これは政府や文科省だけが悪いというのではなくて、日本国民全体の学問に対する意識の低さの表れでもあると思う。つまり「大学に行きさえすれば良い」という考え。なんのために大学に行くのか、大学で何が必要なのかを踏まえた上で、学士力みたいなものを保証しろというのならわかる。その代わり、その力を必要とする職場環境があり、そこで活躍できること。ホワイトカラーで、抽象的思考ができ、オープンマインドで、社会に貢献する人材って、別に労働人口の100%を占めている必要ない。取りあえず就職するために大学に来て遊ぶというのはやめてほしい。
こういう考えを改めろ、ということを教えるためにも、教育の力が必要という・・・。
無限ループだなぁ、と自覚しつつ今日も吠えてきます。