「心を測る」のイベントに参加してみた

この2、3日は大雨で、家の外に出たくもない日々だったんだけど、今日の午前中には晴れ間が出てきて、外出したい気になってきた。ので、3日に予定されてて以前からエントリーしておいてた、「心を測る」のイベントに参加してみた。

会場は秋葉原。出版社が企画したイベントで、著者を招いての談話?講話?みたいな話っぽい。よくわからないけど、「犬も歩けば棒に当たる」のつもりて、とりあえず顔を出したら何か思いつくことでもあるかなぁと思って。もう一つは、こういう「出版後の対面イベント」というのが、少なくとも専門書業界において、どういう可能性があるのかを体験してみたかったというのもあって。

こぢんまりした感じの貸し会議室で、本の内容について議論するというより、訳者の1人が解説する感じで時間は過ぎて、まぁまぁ色々考えさせられた。ということで、以下所感。

「心を測る」「心は測れるのか」というお題は、俺もよくやるけど、少し違う角度から考えてみたらスッキリするかもなぁと思った。すなわち、「計ってしまったものは何か」、あるいは「心を計ると言ってなされた営みは、どのようなものを心と呼んでいたか」が本質なのではないかと。測定とは、量とは、数とは、の理路で考えると、どうもそれで測れたとした対象が異なってることがあって、話が噛み合わなかったりずれたりするんでだよねぇ。今回も話の途中で、「同じ対象についての測定論になってる?」というところが多々あったように思う。

こころが物理学の対象のように静的で外力なしに変化しないもの、と考えるのか、確率変数のように統計的傾向は持つけど毎回異なる出目を持つものとみなすのか、あるいはベルグソンのように?量的なものではなく質的なものでしかないと考えるのか。それによって、測定できるかどうかだけでなく、数値化・妥当化の手続きも違う。プロセスだけ(測定だけ)取り出して可能かどうかもあったもんじゃないよなぁ。

正規分布にも7つの出自,意味があるように、心が確率変数なのかどうか、正規分布に従うのかどうかなど、前提を確認して話し始めないといかんなぁと思いました。今度行動計量学会で話すときは、そこに気をつけようw

態度、テスト、パーソナリティ、そしていわゆる「私の心」、すべて測り方も数値化の根拠も違うので、古典的テスト理論や潜在変数モデルといった測定モデルだけ考えてもズレる。COSMINのように医療的効力と照合できるならそういう妥当化もあるし、それがしたいわけじゃない人もいるわね。

イベントでも時折話題になったけど、「測定が統計の話になっちゃう」というのも、心理学者的なセルフハンディキャッピングなスカシ方で、統計の勉強に追われすぎて心のことを考えてないとか、モデルの仮定・前提をわかってないのが問題なんですよ。なかなか由々しきことで、心の研究をしたくて心理学学やってんのに、いつの間にか自分が考えていた心と違っても、気づけないコースワークになってる。ハードサイエンスの人は、領域が違っても「対象が勝手に動く」とか「集めると正規分布すると仮定できる」といった領域個別の挙動がないので(ニュートン万歳)、そこ抜きで数理モデルできるのよなぁ。心理の場合は、意味、言葉、社会を抜きに考えられないし、その混ざり具合が領域によって違うから、よくよく確認しないといかんのだけどねぇ。定規を心理尺度のメタファーにするのはミスリーディングだ、というのはまさにその通り。

個人的には最近、全て受け取り手の意味に一元化されるのでは、と思いはじめている。ので、そうした「この測定法の有意味な適用範囲」をセットに提供されない心理尺度はダメー、と思ってます。

その意味でテスト理論は楽しいぞ。数字も意味も分布もハッキリしてるからな!

今移植中のExametrika、とても素敵なアルゴリズムの発見が昨日あったのですが、それはマニアックが過ぎるので別の講釈で。ベベベン。

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